知識の海に脳を浮かべて誰かと繋がる時を待つ

俺は、俺の知ったことを他の人に伝えるのが好きだ。
何故なら学んだことを共有することにより同じレベルかそれ以上から生まれるものが頭数分増えるからだ。
各々が覚えることに時間をかける必要なんてなく、馬力が増えれば増えるほど未来の可能性は輝いていく。知識は可能性の固まりだから、独り占めするものじゃない。そう思ってるんだ。

なんでこんな話をしたかと言うと、最近あまりにも高クオリティなツールが無償配布されすぎているからだ。
有料ソフトを買わなくともある程度のレベルはクリアできる、そういうものが両手足で数えて指が足りないほどに世の中に存在している。

オフィスソフトもお絵描きソフトもアニメーションソフトもゲーム作成補助ソフトも3D作成ソフトも、なんでもかんでもだ。音楽ソフトなんかは昔からその傾向があるな。本格的になると外付けの道具が必要だからだろうが、ソフト面は優遇されていた記憶がある。

おかげさまで貧富関係なく何万人もの人が趣味として着手し始めて、多少見知った程度では技術と言えなくなってしまうのではないかと不安になるほどだ。

技術の固まりである道具をフリーソフトとして出してる人たちはどうしてそんなことができるのだろうと考えた。

世に出る物の数が増えて発展が進むと自分に利点があるから、ならばわかる。俺だってそうだ。
作れば、伝えればそれは倍々に広がって自分が楽になったり楽しめたりする。だからそうしている。

たとえばガン解析プロジェクトに自分のパソコンのメモリを使ってもらうように、今度は人間の脳をターゲットに同じことをしているだけかもしれない。
決して悪いことではなく自由意志で、害もなくwin-winでそれができていることが大きいんだ。

宣伝もあるのかもしれないが、それ以上に知識の共有による処理量の増加を求めているのではないか。
人によってセンスも着眼点も違うのだから、人の数だけ様々なものが生まれる。そしてそれを見てさらに次の技術や利便性が生まれ、未来への速度が圧縮されていく。
そしてその分、新しいことを開発する時間が多く残されるわけだ。

20年かけた進化が5年で終わる未来がもうとっくに来ていて、あとは物資の都合で短縮できないだけ、なんて状態になっているかもしれない。
資源は減る一方な現代ではあるが、それが解決した先に待っているものはどれだけ大きなものなのだろうか。無から生み出される無限がそこにあるかもしれないと、わくわくしてしまう。