狂劇 ~相棒劇場版Ⅳの話~

相棒劇場版がこないだテレビでやっていた。そう、Ⅳの話だ。
Ⅳって言っちゃうと遊戯王のあの人が脳裏を掠めるがそこは別の話だから捨て置こう。

3月21日、問題のその日の翌日に流されたある意味タイムリーな作品、知らずとも……生まれてなくとも知っておくべき事件を思い出させるためにわざとそうしたのではないかと思うほど。
こう言えばわかる人にはわかるだろう内容、つまりはテロに関するものだ。
以下はネタバレがあるというか見てるの前提で書いていくので見ていない人は見ていただきたい。スッキリするかと言われるとそうではないので注意は必要だが……。

 

 

映画内で行われたのはテロ未遂事件という平和的なロールプレイで、実行する気のない優しい演目だった。
国を憂い国防を案じての犯行で最後は「なんだそういうことか、安心したなぁ」なんて胸を撫で下ろすこともあるだろう。
いつもの右京さんの独白で綴られるこれまでのことについついスルーしてしまうし、流石特命だなと思うこともあるが考えてみればそれは凄いことでもなんでもない話だった。

犯人が内部にいて、犯人がヒントを与え、犯人によって答えに導かれた。
つまりこれは自分たちの気付きだけでは到底阻止することはできないという物語を見せつけられているということだ。
誰かの心の中や頭の中は覗き見ることはできない。表記されていない計画図を共有はできない。人々の真意は憶測で考えることしかできない。
内通者の力添えがなければ劇中ですらできなかったことが現実にできるのだろうか?

今でも度々ゴミ箱の撤去やロッカーの利用停止など防ぐための手段はいくらも取られていて、危機とさせる方法を行うことは難しくなっているだろう。
……と言っても平和に纏われた人間の思うところだ。自分で考え、計画しなければ見えない抜け道というのがある。
街中を歩けばいくらでも忍び込める家が見つかるが普段はそんなこと気にしない。それと同じだ。
人ひとりひとりの意識の改革で防ぐことができる、綺麗事で飾り立てるならそうだろう。だが今はどうだ、車という武器を持たれるだけで俺たちはこんなにも無力だ。

だからといってはしゃいだり、賑やかなところに行ってはいけないというわけではない。
各国の危険な目に遭った街だって煌びやかに色を変える日があり、人はそれに寄っていくものだ。それを油断と言うならばそうなのだろうが、許されないほどのものでもない。
平和ボケしていて何が悪いのだろうか?平和があるから危険なものに気付くことができる。銃を携帯していたところで即座に撃てるとは限らない。
「いつか」は常に考える必要はない、それこそこのように「何かの作品で触発されて」でも。

個人の意識を変えさせるためとすれば大成功なドラマだ。
だがまた人々は忘れるだろう。歴史に刻まれない物語なんてそんなものだ。震災は残すのに、飛行機事故は残すのに、テロ事件は風化させていく。そのことを改めないのであれば一時だけ思い出したところで意味がない。
他国の惨事も過去の事件も、心を痛めた自分は居たはずなのだからそれをもう一度取り上げる方が娯楽なんかよりよっぽど意識改革に向いている。
どうしてドラマが伝えなくてはならないのか……そこを少し考えた方がいいのかもしれないな。

 

たとえば何かあった時、老人を背負って歩ける。車椅子を押してあげる。AEDの位置を覚えている。119に伝えられる。自分の情報を即座に出せる。それだけだって充分な自衛だろう。
それと何より大事なのは咄嗟に動ける行動力で、それができる勇気でもある。
形だけ準備しても一瞬を惜しんでしまえば何かを失うかもしれない、そうならないようにする意識と覚悟があれば一個人の準備はできてるようなものではないかと俺は思う。