要領のよさってなんだろう

ツイッターで呟いたことをさらに掘る日記第2弾。9月の日記数少ないからちょっと嵩増ししていくことにする。

「自分は要領が悪いから他の人みたくすぐ理解できず何度も訊ねることになって申し訳ない」
という投書を某所で見た。

確かにそれは負い目になることだろうし考えてしまうことだろう。だけどそれって本当にダメなことだろうか?
仕事ってのはマニュアルがあるもんだが、それの間が一部抜けてて脳内補完しろってのはよくあることで、場合によってはマニュアル自体ない。
そこを直す役に立つのが自分のことを「要領が悪い」と思ってる人たちだ。

理解している人に完璧なマニュアルを作ることはできない。理解していない人の疑問点を潰さないことには理解できないままの完成品となる。
故に疑問を提出することは大事な役割だろうと俺は考えている。
何度も訊ねること、よくわからないことってようは「わかりやすく書かれてない」ことでもあるわけで、それを万人にわかるようにしないと結局マニュアル作りも自己満で終わることなんだ。
質問される側も「わかりづらかったかな?」と疑問を持たなきゃいけないし、もっとわかりやすくする方法はないのかと探るのも大切なことだ。

言い出すとキリがないことだってのはわかってるが、8割の人間が理解する物を単身で作っている人がどんだけいるのかって話だよ。
大体5割、既に知ってる人に通じるような構成にしてることの方が多くて1から不備なくなんて無理じゃん?それを8割のレベルまで仕上げるのには他人のサポートが必要になる。
漫画家と編集なんかがいい例だよな。
そう考えると必要な視点だってのはよくわかるだろう。


学生時代に勉強に取り残されたって人は少なくないだろう?
教科書ってマニュアルみたいなもんなんだよ。
学校の、学年内で同じ本を使って同じ人から教わった同一の勉学。
それでわからなかったら勉強会をしたり先生に訊いてわかるようになっていく。そうやってついていくのは当然……いや、落ちこぼれっぱなしでもいいやって人もいるからそこの差はあるが……ついていこうとする人はついていく努力してるじゃん?

それに対して要領が悪い、申し訳ないとは思わないわけで、教師と生徒だからみたいなものも関係ないしなんなら勉強会は生徒同士だからそっちのほうがお詫びとか考えなきゃいけないわけだろ?
仕事となりゃ教える作業中にも給料発生してんだから負い目とか感じなくていいし、ノルマがあるとしても理解させられないならそれは寧ろ問題で、後々ヤバいことが起こりえることなんだから積極的に突っついていくくらいでいいんだよ。
急がば回れってのがある意味ピッタリなのかな。


自分だったらこっちのほうがわかりやすいっていう方法や伝達手段があるんなら、それで貢献すれば恩は返せるわけでさ。
学んでる時だけに視点を向けるべきじゃないと思うんだよな。

自分では欠点としか考えられないけど見方を変えると武器になるものってあると思うけど、これってそうなんだよ。
人ってそれぞれ理解力やこれまで学んできたものへの落とし込みかたとか、想像力とか覚え方って大きく違うもんだから平均って測れないんだよな。
暗号に成り得るところを日本語に変えていく作業は辞書作りみたいに「これはなんですか」を訊ねられる人じゃないとできない。細かにそれを繰り返さなきゃ全部の解読はできないわけで、その細かなところに気付けるのが「全部を理解するのに何度も、何日もかかる人」なんだと俺は思う。

……なんて俺が言っても悩んでる当人ってのはやきもきして、今すぐ力になりたいと考えてしまうもの。
それに対して「ゆっくりでいいんだよ」なんて生殺しみたいなことを言う気はないし、やる気があるってのは何よりの強みなので抑える必要性なんて欠片もないもんだと思ってる。
けどその上で自分のこと、理解に時間のかかる「欠点」ではなく人を助けることのできる「性質」であることを認識して生きてって欲しいなぁ、と願うのだった。